※ 見学可能時間は10:00~16:30になります。
職員会館かもがわの隣にひっそりと建っている古い日本家屋があります。
一見何の変哲もない小さな日本家屋ですが、この家屋は長州藩の武士で、明治維新の指導者として活躍し、維新の三傑の一人とうたわれた木戸孝允(旧名:桂小五郎)が住んだ別邸の一部だといわれています。
木戸孝允は天保4年6月26日(1833年)8月11日~明治10年(1877年)5月26日に生きた長州藩出身の武士で、幕府側と尊王攘夷派の争いが激化する中、長州藩の尊王攘夷の指導者として活躍しました。志士時代には幕府側から常に命を狙われていましたが、果敢に京都で活動を続け、幕末の世を生き抜きました。
維新後は明治の政治家として、内閣制を整えるなど様々な制度に関わり、国民教育や天皇教育の充実に務めた事により、明治天皇から厚く信頼されたといわれています。
この敷地は公家の近衛家の別邸でしたが、明治以降公家や新政府要人が東京に転居した事により、木戸孝允が京都別邸として購入しました。
下図は史蹟に指定された昭和8年頃の見取り図です。この見取り図全体が木戸孝允の邸宅を表しています。右端が鴨川、左端が土手町通りで、真ん中の濃く塗られた部分が、現存する建物です。
この図を見ると、広大な面積を持つとても立派な邸宅であったと想像できますが、現在は新しい建物に建て替わってしまい、残っているのはこの別邸の一部のみとなりました。
明治政府内で権力争いが絶え間なかった事や多くの問題が原因で、木戸孝允は心身を害し、京都の出張中に病が重症化して、この別邸で療養したと言われています。
その際の明治10年(1877年)5月19木戸孝允と親しくされていた明治天皇が公の見舞いにお越しになりました。当時民間人の見舞いに自ら出向かれる事は公では初めてであり、大変異例の事で、今でもそれを示す石碑が残っています。
しかし、木戸孝允は同月の26日に明治政府とかつての志士の仲間を案じる言葉を発したのを最後にこの別邸で生涯を閉じました。享年44歳の若さでした。
木戸忠太郎は、1871年~1959年に生きた地質学者で、明治維新の指導者として活躍した木戸孝允と妻・松子の養子で、実母は松子の妹です。
忠太郎は、東京帝国大学で地質学を専攻し、明治31年に卒業後、満州へ渡り、南満州鉄道株式会社が経営する鉄鉱山の地質学研究所に所属し、所長を務められました。また、交友関係も広く、民俗学者の柳田國男や文学者の尾崎紅葉、また広辞苑を編纂した新村出などの著名人とも交流を持ったと言われています。
明治42年のある日、忠太郎は中国の大連に立ち寄った際、達磨を購入しました。忠太郎はその達磨を見て、日本の起き上がり達磨と関連があるのか強く興味を持ったそうです。その時から様々な達磨をコレクションするようになり、達磨に関しての書籍まで執筆するほど熱心に研究をしていたと言われています。